起業・創業

私の起業ストーリー【プロフィール】

基本情報

松岡菜々美

・アドストーリーズ 代表
・松岡 菜々美(まつおか ななみ)

福岡県北九州市出身。福岡教育大学の美術コース卒業後、北九州の老舗ホテルの広報宣伝・企画部で8年勤務。2018年、山口市への移住を機に起業。

起業・創業のトータルプロデュースほか、SNS運用、デザインによるブランディング等、地方の店舗型ビジネスの情報発信・集客・ブランディングが専門。

<実績>
・TwitterとInstagramのフォロワー数を3ヶ月で3,000人増
・リール動画1投稿最大30万回再生
・1年間のメディア取材50件以上
・Googleビジネスプロフィール閲覧数(1ヶ月)15万件以上増加

ほか、行列の出来る人気店『角島ジェラートポポロ』など店舗トータルプロデュース

山口県商工会議所や商工会の選定した専門家(エキスパート)として登録。山口県運営の創業応援施設mirai365や商工会、商工会議所から依頼のセミナー・講演実績も多数。


松岡菜々美ってどんな人なの!?と思って頂けた方は、下記に波瀾万丈の人生を書いています↓

実家のコンビニで販売促進の面白さを知る

小学生~大学時代:実家のコンビニで販売促進の面白さを知る

小学生のころより実家のセブンイレブンを手伝っていました。学校から帰るとコンビニのバックルームで品出しをしたり、ポップを書いたりしながら多くの時間を過ごし、

商品の並べ方、見せ方、声かけ、手書きポップひとつで同じ商品でも全く売れ行きが変わる面白さを知りました。

学生時代には、店舗のスイーツ部門の発注と売り場を全て任され、売り上げ前年比200%、エリア地区一番の売り上げにしました。

また、アルバイトの教育、仕組み作り、売り上げ拡大業務、発注業務等、幅広く担当し、この時マーケティングという言葉は知りませんでしたが、実践で販売促進を学びました。

大学は、福岡教育大学の美術コースに進学。教育大のカリキュラムは普通の美大とは違い、大学に入る時に専門を選ぶのではなく、1、2年生の間は幅広く学び、3年生から専門を選ぶ仕組みでした。

日本画、洋画、陶芸、染色、鋳造、木彫、石彫、平面デザイン、立体デザインなどを幅広く学び、3年生からは専門は立体デザイン(鉄の彫刻)を選択し学びました。

大学卒業後は、ディスプレイデザインの会社に就職しましたが、不規則な生活に倒れてしまい、その後、大学の教授の紹介で、北九州の結婚式場、レストランなどの経営を行う老舗ホテルに就職。

広報宣伝部・企画部にて、レストラン部門を中心に、各部門の広報宣伝、商品開発を8年、実践で学びました。

マーケティングの本質と面白さに気づく

マーケティングの本質と面白さに気づく

恥ずかしながら、私がマーケティングという言葉を初めて知ったのは起業セミナーに行ってからです。

自分が今まで実家のセブンイレブンやホテルの企画部時代など合わせて、20年近くずっと考えてきたことがマーケティングという事だったのを知り、私がしたいこと好きなことはマーケティングだったのだと知りました。

そして、ちゃんと勉強したいと思い本を読んだら、今まで私が考えていた理論それぞれにマーケティング手法として名前が付いているという事を知りとてもビックリしました。

マーケティングの本質は、人間心理を考え、お客様の事を考えて考えて考え抜く事にあると思います。私はセブンイレブンの時も、目の前の一個の商品がどうしたら売れるかを考えて日々色々と試してみました。

ホテル時代もお客様の気持ちとお客様に必要なサービスと喜んで頂けることを考え続けて形にしてきました。そして、売上げ200%アップ、ヒット商品、レストランの行列を作ってきました。

大病からの寝たきり生活、夫のDVとモラハラ

大病からの寝たきり生活、夫のDVとモラハラ

起業や創業なんて今まで一度も考えた事が無く、サラリーマンとして働く事が幸せで、ホテルの広報宣伝や企画の仕事が大好きで『この仕事は私の【天職】だわ~』とずっと思っていました。

毎朝通勤中には『今日は何をしよ~ってワクワク』して、会社の建物が見えてきたらニヤニヤしてしまうぐらい好きだったのですが、世界に3例しかないような大病にかかってしまい手術をすることになりました。

術後、リハビリもしましたが、普通の体には戻ることは無く、以前のように普通の人のように働く事は出来なくなってしまいました。そして大好きだった会社と仕事を辞めることになりました。

仕事が生きがいだった私は、ベットの上で、自分が生きていても生きていないような心地がしていました。ほぼ寝たきりでブロック注射を打ち続けなければいけない痛みの続く毎日に落ち込んで数年過ごしました。

そして、働けなく家事も出来なくなった私に夫からのDVとモラハラが始まりました。大切だった人から受ける暴力暴言は、恐怖と悲しみと絶望、地獄のような日々でした。

そして、今から7年前警察に保護されて、子どもと2人、着の身着のまま、でもとにかく少しでも遠くへ、九州からは逃げたくて、門司港から船に乗って、知人も友人も誰もいない山口県へ来ました。

山口県に来たものの行く当てはなく、下関市のビジネスホテルに滞在。現実を受け止めることは出来ず、一日中、頭の中はグチャグチャで、泣いても叫んでも私の気持ちは届かなくて、、、

どうしようもなく悲しくて、なんでこんなことになったんだろう、何を間違ったんだろう、全てを失って、でも目の前には小さな子ども。

お金もいよいよ尽きて、『もう今日が終わったら、明日はどうなるんだろ、、』とホテルの部屋からボンヤリと下の公園を眺めていました、『この公園で暮らすのかな、、?』『飛び降りてしまおうかな、、』とか、、

もうまともに考える思考も無くて、でも、子どもが私を追って落ちたらどうしよう、現場を見てしまったらどうしよう、、

何より、子どもを連れてきた以上、幸せにする責任が私にはある、馬鹿なことを考えるのはやめようと思いました。

そんな最後の日に、下関市役所の方が助けてくれて、とある支援施設へ連れて行ってもらえることになりました。

今から行く場所がどこなのか、全く分からない状況で、カーテンで仕切られた車で帽子を深く被り、誰にも見つからないように施設へ連れて行ってもらいました。

そこには6畳の部屋と台所があって、食べるものと着るものをもらうことが出来ました。

寄付のTシャツを2枚とジャージのズボンを2枚。そして、その日は、たまたま、施設の月に一度のカレーの日で、久しぶりのまともな食事。子どもと温かいカレーを『美味しいね、美味しいね』って食べました。

寄付をもらう、人に助けてもらう、という経験は今までなくて、こんなにも優しい人達がいるんだ、親身になって話を聞いてくれる人がいるんだ、と思いました。

『私はダメな人間だ。夫の心を救う事が出来なかった。家族として3人で一緒に生きることが出来なかった』と泣き続けていたと思います。そんな私に温かい言葉をかけてくれて、安心して寝られる場所を与えてくれて、感謝しました。

だけど、これからどうやって生きるのだろう…私はどうなるのだろう…

なんで私たちは幸せになれなかったんだろう、子どもを幸せに出来なかったんだろう、と

不安と後悔の日々に毎日毎日、泣いて過ごしました。

でも、泣いていても生きてはいけない、

子どももいる。生活をしていかなければいけない、この子を幸せにしないといけない、立ち止まることは出来ませんでした。

サバイバルゲームのような生活の始まり

サバイバルゲームのような生活の始まり

施設へ入ることはできたものの、回りは見知らぬ土地。お金も全く無く、夫の借金も数百万抱えていて、時計も無い、スマホも無い、車も無い、見ず知らずの土地でのサバイバルゲームのような生活が始まりました。

リアルにゲームの様な世界。マインクラフトの主人公状態。見知らぬ土地に突然スポーンして、本当に自分の目で見える範囲の情報しか分からないという、現代の日本でこんな状況になる?!というような現実でした。

まずは、100均で、ノートとペンと腕時計を買って。次に周辺地図を手に入れるとこからだな、と思って、近くに図書館があるらしいって情報を仕入れて、

そこまで歩いていってパソコンを借りて周辺地図やバスの路線図を出しました。あと、ご飯を作るのに私はレシピが無いと作れないタイプなので、図書館で本を借りてそれをメモしていました。

ギリギリ食べる事だけは何とかなりましたが、余分なお金は全く無く、近くのスーパーで88円で売っているポテトチップスすら高くて買うことが出来ませんでした。

でも、子どもにおやつを食べさせてあげたくて、パンの耳レシピ集を借りたり、ゼリーや蒸しパン、クッキー、ポテチなどなど、色々な節約お菓子がつくれるようになりました。

貧乏すぎる暮らしでしたが、それはそれで新しい発見も沢山あったし、『人って一人では生きていけない』って本当なんだなと思いました。また、『人ってこんなに優しいんだな…』と最初は戸惑うこともあるほどにビックリしました。

小さな子どもの手を握って気づいた幸せ

小さな子どもの手を握って気づいた幸せ

田舎での車の無い生活は不便でしたが、車が無いと季節の移り変わりや自然の美しさを感じることも沢山あって、何より、福岡では車生活だったので、子どもの手を握って歩くという事がありませんでした。

でもこんな生活になって、どこに行くにも歩きかバスなので、子どもの小さな手をいつも握って、

『この子の手はこんなに小さかったんだ、こんなに小さいのに、色々考えて、私を守ってくれて、勇気をくれて、頑張る力をくれていたんだ』

と思いました。

親水公園があるらしいって噂を聞いて、地図を片手に、水筒とお弁当を持ってひたすら暑い中、励まし合いながら歩いたり、

やっとついた公園で一緒にお弁当食べて、蝉の抜け殻を集めまくったり、

突然の雨に降られてその中を歩いていたら、知らない方から傘を貸してもらえて、よかったね、嬉しいね、って傘をさして帰ったり、、

小さな幸せに沢山気づかされる日々でした。

そう、発見として、スマホが無いことで年配の人の気持ちがよく分かりました。スマホが無ければ、バスの時刻表もお店の電話番号も分からなくて、全部メモ。

よく祖母が小さなメモ帳と鉛筆を持ち歩いて、いつもメモしていたのを思い出したのですが、そういうことかと。

スマホが無ければ全てが一期一会。

だから、お店のテントに電話番号を書いたり、タクシーが車体に電話番号書いていたりって、年配の人がターゲットならやっぱりデザイン上、大事なんだな~。とか、その時、思ったりしていました。

大変な状況の中でしたがいつもマーケティングのことを考えていました。

そこから、『このまま貧乏暮らしを続けるわけにもいかないな、でも動けるような健康な体ではなくて、、フルタイムでは働けないしな、』と悩み、、
『在宅で、テープ起こしやエクセル入力くらいなら出来るかな』

と思って、図書館のパソコンで検索して、たまたま見つけたのがWITTY(山口県主催の女性起業セミナー)のホームページでした。

女性起業セミナーが運命の扉に

女性起業セミナーと運命の出会い

もう既にセミナーは始まっていましたが、ダメ元で連絡をしてみると、『もう1回目は終わってますがいいですよ~』とのお返事、、

なけなしのお金をはたいて申込みをしました。(今思えば全10回のセミナー。とても充実した内容で破格の1万円だったのですが、当時の私にはとても大きな出費でした)

セミナー当日は、超ドキドキして、着ていく服も最初のTシャツ2枚とジャージしか無かったので、古着屋さんで数百円の服とバッグを買って、なんとか取り繕って行ってみました。

そしたら、そこで勉強していくうちに私はただのサラリーマンだったから、何も出来ないと思っていましたが、自分の出来ることや強みが整理されて、考えがまとまってきました。

受講中に、一緒に受講している方から、名刺を作って欲しいと依頼されて、内心『え!!嬉しいけどパソコン無い』と思って、お金も全くなかったので事業計画書を書いて補助金の申請をして何とか、5万円のパソコンと1万円のプリンター、イラストレーターとフォトショップを買いました。

内心は、『私本当に大丈夫かな、名刺作るのに勢いでパソコン買ってしまったけど、この後どうしよう、、』と思っていました。

ですが、、受講中に他にも、『私が菜々ちゃんプロデュースの最初のお客さんになるから、私のお店をプロデュースして♪』って、同期の秋枝美香さんに言って頂いて。

それも内心『え、私に出来るかな、、え、えーーー…しかも、車も無くて角島まで行けないけど、どうしよう、、』と思ってましたが、

『大丈夫!あなたなら出来る!車無いなら駅まで迎えに行くから!』と言って頂けて、あれよあれよと、お店(のちの角島ジェラートポポロ)の新規オープントータルプロデュースを受ける事になりました。

美香さんは、とても素敵な方で、私と同じ山口県への移住者で、お客様の笑顔の為にと事業を興されました。私もその熱い思いに応えたくて、自分の実力以上の力を引き出してもらったと思います。

実績も何も無い私を信じて仕事を依頼してくれて、身寄りのない私と子どもを本当の家族のように気にかけてくれて、沢山助けてもらいもらいました。

そして、ジェラート開発は美香さん、それ以外は私が担当し、二人三脚、、
そして、着手から5ヶ月後、お店をオープン!!

絶対失敗すると言われていたお店をプロデュース

絶対失敗すると言われていたお店をプロデュース

でもこのお店、後から美香さんに聞いた話なのですが、何人もの専門家から絶対に失敗するといわれていたそうです。地図をみて頂いたら分かるのですが、角島の方ではなくて、橋を通り過ぎた、観光客の方はこない民家の方で、、

・この場所で商売したらすればするほど赤字になる
・角島か国道に出店しないとダメ
・キッチンカーで道の駅に出た方がいい

と言われていたそうです。ですが、予算の関係もあり、そのままの場所でオープン

プレオープンの日には近所の方と創業セミナーの同期生がみんな来てくれました。近所の方は、すごく美味しいから皆に知ってもらいたいね、角島の方にでれたらよかったんだけどね、、と心配してくれました。

そして、オープンから2ヶ月後
夏期は連日行列のできる有名店に!新聞やテレビ、雑誌にもたくさんとりあげてもらいました。

プロデュースは大成功!

その後も、起業セミナー仲間がトータルプロデュースを頼んでくれたり、パンフレットや名刺なども頼んでくれました。

その中には自宅サロンから女性一人で始めた方もプロデュースさせて貰いましたが、
オープンから1年後にはあっという間に法人化、従業員を沢山抱え、2店舗3店舗目と開業されていきました。

また、角島ジェラートポポロさんも、コロナ禍でも大行列。地域で繁盛しているのはそこだけという集客力で、連日の行列。地域や商工会で話題になり、

【アドストーリーズの松岡さんに頼めば成功する】

といわれるようになり私のところにプロデュースの依頼が次々と舞い込むようになりました。

起業して自分の人生を生きられるように

起業して自分の人生を生きられるように

そして、私も、そのお客様方のおかげで、山口に来たときは夫の借金が200万ほどあったのですが、それも全部返し終わり、車も買うことが出来て、ついには施設を出て、家を借りることが出来ました。

私の事業の売上げも、1年目150万、2年目500万、3年目1000万と達成していきました。

車もスマホも人脈もお金もない状態から、なんとか一人で立って自分の人生を生きられるようになりました。

元夫とは、私が家を出てから、お互いに弁護士を立てて、私は住所秘匿のまま、裁判へと進みました。
私の主張は、離婚、夫の主張は子どもの親権でした。

そして、5年裁判し、やっと離婚が成立し、私が親権をもち、DVも認められ慰謝料の判決がでました。

それを機に私も今までは、まるで犯罪者のように逃げて隠れて生きてきましたが、顔出しをして仕事をすることが出来る様になりました。

起業してから、沢山の良い出会いがあり、沢山の方の助けがありました。

私が今、幸せな日々を過ごせているのは、今まで助けてくれた方、相談にのって支えてくれた方、
毎日私に「いってらっしゃい」、「お帰り」、「頑張ってるね」と温かく家族のように応援してくれた施設の方、

そして、実績も何も無い私のお客さんになってくれた方々のおかげです。

今は、子どもと、日々、仕事や家事におわれながらも、幸せに生きています。

そして、守らないといけないと思っていた小さかった子どもも山口県に来たときは5歳でしたが、今年、中学生になります。料理が得意で時々私にご飯を作ってくれます。

私の一番の理解者でサポータで、今となっては私がいつも助けられています。

これからの夢と目標

私の人生は大変なことも多かったですが、元夫のことも、病気のこともどちらかがかけていたら今の自分はいないし、山口県にも来ていないと思います。

だから、過去があって今があって、仕事を頂けて、お客様も良い方ばっかりで、私を大切にしてくれる好きな人たちだけに囲まれて、美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、楽しい体験をして

『幸せだな~って、心から思える日々を送ることができています。』

私の原動力は、仕事でもプライベートでも人に喜んでもらうことです。

私ひとりの持つ力は小さいですが、色々な方と繋がって、みんなが良くなる縁を繋げていける人になりたいと思っています。

そして、

沢山の魅力的なお店や会社を作りたい、
昔の私のように起業する人のサポートをしたい、
集客に困っている方の力になりたい、

夢を叶えるお手伝いをしたい、
私を助けてくれた施設や山口県に恩返しをしたい、


と思って仕事をしています。

このブログがお悩みを解決したり、夢を叶えるヒントになれば幸いです。

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